川島 | 私が弟子の杯をいただいた時、入門当日にもかかわらず、習得の心構えとしてまさに理路整然と口伝極意を御伝授してくださいましたね。 |
木下 | そうでしたね。あえて「日置の根本・本筋」から入っていきましたよ。「初心の教え」は省略しました。 |
川島 | 今から考えると、つねに高的中率があり、自分なりに人様に指導できる理屈がありました。 |
木下 | 貴君の言葉を借りるなら、趣味の礼射は尺二的に半矢を良しとし、門人は金的に半矢を良しとする、ということかな。 |
川島 | 老師が無造作に矢を四本持ってきて、我が目前で四本ともが金的に皆中してしまったので、ショックでした。 |
木下 | 戦前は小的での競射が常識だったので、戦後の尺二的はまさに「大衆弓道」ということだ。 |
川島 | 例えば、離れ一つとっても「大離れ」は初心の射であり、上達するに従って「中離れ」となり、さらに「小離れ」を習得してゆく。この過程が存在するにもかかわらず、今や「小離れ」はまぼろしの射になってしまった。これもカルチャー指導者の数が増えたためでしょうね。 |
木下 | 戦後から現在まではスポーツ人口増加という大儀名分のために、質より量の時代であった。この様な過渡的状況は今後二十年くらいはつづくでしょう。 |
川島 | この期間に、日本人特有の文化である「武道」を次代に担う後進者に伝授してゆかなければならないと痛切に感じます。 |
木下 | そのために、まずは「骨法(こっぽう)」を是非とも若き指導者に徹底していただきたい。 |
川島 | 骨法正しからざれば射又正しからず・・・射正からざれば気力虚にして実せず・・・気力虚すれば気体一個ならず・・・このことですね。 |
木下 | 弓道の修練を通して「悟り」のレベルの答えをいかに求めようと、努力したところで、骨法を外した不合理な射法ならば、何十年弓を引こうと、先人の域には到底達しえないということだ。 |
川島 | 射法・射術の根本は心技体にありと云われていますが、「骨法」と云う事をよくよく理解したうえで、射法射術を学ぶ事に依って、精神力が養成されると云う事ですね。 |
川島 | <あがって>しまい、実力が出し切れずに終わってしまうことがありますが、いかがお考えですか。 |
木下 | 七十歳や八十歳の人生の見本の年齢になってしまってもアガルものはアガルのです。 |
川島 | 何十年このかた平常心を念仏のように唱えている有名な先生方の射礼時ですら、ハカマすそが振動している時がよくありますね。 |
木下 | <アガル>とはいわゆる恐怖心の一種であり、心の深層では<自信>がないので心配が先行してしまっているのだ。 |
川島 | いつのまにか、その姿が真摯ですばらしいものだといって話が美化されてしまうものだから、いつまでたっても先のレベルにすすまない。 |
木下 | 身体の動かし方に<骨法>があるように、心理的なもの、精神的なものにも各人ひとりひとりに対しての修練過程がある。 |
川島 | 未熟な技を根性精神論で飾り立てるレベルのものではなくて、物理的な法則で解明された<骨法>と同様な<精神の骨法>といったものの修練過程があるということですね。 |
木下 | 十人十色の人間がいるからといって話をゴマ化して禅問答してしまうから、ひとりよがりのガンコタイプが育ってしまうのだ。 |
川島 | <口伝>通りにいけば、精神修練の過程も体系的に伝承されてきていますので、我が流派の歴史の重みを感じてしまいます。 |
木下 | そうだね。時代に合わせて、いま流に一つ一つ具体的な例えでわかりやすく解説されていくのがよかろう。当然他の武道でも各個の社会生活の中においても存分に役立つであろうと存ず。る |
川島 | ときどき初心の者に自分自身のタイプを選択するところからスタートするように申しておりますが。 |
木下 | おもしろそうだね。どのように具体的に解説されているのか。 |
川島 | 先ず第一に<オドオドタイプ>、第二に<一発屋タイプ>、第三に<考えすぎタイプ>この三つのタイプのどれに自分自身が属するかを悟ってもらうところから修練するように申しております。 |
木下 | なかなかわかりやすい。『平常心だ』『平常心だ』の空念仏だけでは今後<日本の心><ゆみのこころ>を学ぶ若い人たちにおいても、まして外国からやってくる人々さえも耳を傾けずに<首を傾ける>ことになってしまうに違いない。 |
川島 | 矢数を何千本、何万本かけてみても、『目標』への進入ルートを知らない限り迷走ばかりしてしまい、せっかくの修養のレベルにはほど遠くなってしまいます。 |
木下 | ちまたには精神修養の言葉がくどいほどにも氾濫している。しかし、実際の修養の過程そのものを記するものはほとんど皆無である。五百余年以上もつづく我が流派の歴史性ある鉄則をもって、どうか今後各人の実生活の上にも充分役立てていただきたい。 |
川島 | 弓道修得の心構えとは? |
木下 | いかに上手に的中させてみたところで技と心が併合しなければ真の弓道とはいえない。例えば、数ヶ月を経た初心の者と、二〜三年を経た中習のものとの<行射>を見比べたとき、どういう由か初心の者の方に<好感>を持ってしまうことがあるだろう。 |
川島 | 確かにそうですね。的中も出て、そのつど喜びや憂いが生じてきた連中の行射の方が美しく思えるはずですが、同じ立ちの練習では、初心の者の方が光って見えてしまうことがあります。 |
木下 | また、こんなことはなかろうか。的中はしなかったが、自身もなんとなく「ハッ」としたような、気持ちがよかった行射と、的中はしたものの、どういう由か無視されてしまうような場合があるだろう。 |
川島 | そうですね、いつの間にか的中のみに心が先走り、当てることのみに熱中したがために、我流に走り、結果としてストレスだけがたまり、中途半端になってしまっている時期がありますね。 |
木下 | そんな時は、いくら皆中してみたところで、本人自身も満足もいかないし、ましてや周囲の評判も、口先ではほめてはくれるものの、後の茶の席では、話題にもならぬ事がある。弓だけとは限らず、すべての動作の終極には、「美」というものが存在しよう。芸術論・哲学論などは、後々のことですが、先達の教えを充分反復されたい。 |
川島 | つまりは、射法八節とか五味七道に極みありということですね。生死をかけたところより生じた五味七道という究極の方程式を解析せざるして、<平常心>や<無念無想>などという境地にはほど遠いということですか。 |
木下 | 具体的方法として敢えていうなれば、平常心・無念無想の境地になりたければ、先ず射術を完全に身につけ、完全に身体に覚えさせてしまう心掛けが大切である。つねにその<心掛け>が必要であるということだ。 |
川島 | なるほど、先ほどの初心者と中習者の例えがわかってまいりました。<心掛け>が常に必要な初心者の方が回り道をしている中習者より、近道にいるということですね。 |
木下 | 禅問答的やりとりはまた別の機会におくとして、当流では、<無念無想>では矢は当たらないと解している。 |
川島 | 弓道の上達のために<技>を学ぶのですが、その学び方について御教授ください。 |
木下 | 武技として考えた場合、初心の当初から『最高の形』を習得してゆかない限り上達はしないということだ。 |
川島 | 大抵の人たちは試行錯誤しながらやさしいものから順に上達してゆくものが正当であると思い込んでいるのですが、よくよく考えてみればどうもこれは思い違いのようですね。 |
木下 | 毎日の練習を重ねて、ある時『これだ!』と思い、ハッとしたとしよう。しかしね、ふっとまわりを見渡せばすでにもう日は暮れかかっているのです。 |
川島 | つまり、<技>を学ぶとは、普通の人間的な動かし方を超えた動かし方を覚えなければならないということですね。 |
木下 | 例えば、箸の持ち方を考えてみれば良い。見よう見まねの幼児は三本指で握ってしまう。これが自然な人間的な技ということです。 |
川島 | なるほど、<箸の持ち方>の例はわかりやすいですね。 |
木下 | <最高の形>を体得した私たちは、真っ暗闇でもちゃんと箸と茶碗で御飯を食べることができる。 |
木下 | <弓は人生の縮図>とはなかなかうまく言ったものだな。 |
川島 | 自分の生活の中で起こった一見複雑そうなことを、弓道の修練の過程でおきかえてみると、意外とすっきり見えることが多くあります。 |
木下 | 世の中は本来シンプルにできていて、複雑そうなことも、単純化すれば実に明確に見えてくるね。 |
川島 | わからないことが出てくれば、<射法八節>に従えばよい。 |
木下 | 何事も原理原則というものがあって、それに則って生きればうまく生きられるということだね。 |
川島 | 基本原理、つまり極意というものをおろそかにして、何千本、何万本矢数をかけたところで、ムダな時間浪費そのものです。 |
木下 | せっかく地図を持っていても、判読の方法がわからないまま、迷い道をうろうろしているようなものだな。 |
川島 | 最高段位者になっても、何故一手二本の矢を持って行射するのか、知らない者がいましたよ。 |
木下 | 立ち居振る舞いがどうのとか、<礼に始まって礼に終わる>などと、お題目のように唱えてばかりいるからだな。 |
川島 | 「一本外れたから二本目で中てよ」の答えのレベルでは、外れたらシュンとして、中ったらバンザイしての、大衆弓道そのものです。せめて最低でも一本目のつまづきを二本目で取り戻し、そしてその次の大手柄につなげるために一手あるという程度の認識が欲しいものです。 |
木下 | 次の次へ行くための日々のターゲットがないためだな。 |
川島 | ターゲットつまり具体的な<目標>ですね。競り負けてしまうということは力が足りないのでなく、真剣さが足りないのであり、土俵際のふんばりがないのは自分自身に自信がないということです。 |
木下 | あせり、あがく果てに残るものは何もない。 |
川島 | 四射皆中する人よりも、常日頃、練習目標を持ちつづける十射八中の人の人生の方が、土壇場で大きく人間性が開けるということですね。 |
木下 | 必要なものは気迫と活力、つまり胆力だ。 |
川島 | まったくもって最近はハラができていない。有名な方でさえ、<会>に入って腹を見ると、スーハー、スーハー呼吸していますものね。まったく話にならない。 |
木下 | それでは、まったく平常心もなにもあったものではないな。 |
川島 | ハラが出来てこそ極意に近づけるのですから、いかにそのハラを創り上げることが肝要かというものです。 |
木下 | 初心者から創り上げないとだめだね。決して弓歴が長いからといって出来るものではないからな。 |
川島 | 二〜三週あれば、ハラの基本は体得できます。つまり基本の胴造りを徹底的にマスターすればよい。お尻の孔を締めて、臍下丹田に気力をこめる練習さえすれば、数十年修練している先生方に決して劣ることのない見事なハラが出来てくるはずです。 |
木下 | まあ六十度に踏み開くレベルでは程遠いということか・・・。 |
川島 | 射形の上手−下手を見極めるポイントは何ですか? |
木下 | それは<手の内>と<軽い離れ>だな。 |
川島 | 弓手は小さくシンプルに圧縮された形であり、いわゆる各流各派に伝わるものにあつ紅葉重ね、卵中、竹の弦がらみ、などといったものですね。 |
木下 | 飛・中・貫を創出できうるもの、七間三尺ができうる<手の内>が大切だ。木刀を持っても、やりをとっても、ゴルフのクラブを握るのもすべてが同じことです。<握る>のではなく<受ける>ことだ! |
川島 | 握り込んでいては、お箸さえも十分に使えませんね。 |
木下 | ひところ有名な高段者が、人それぞれ手の形もちがうので、ただただ弓を握り込んでドカンと離せばよいと伝導していたが、やはりこの程度のレベルでは小的の金的への皆中は、夢のまた夢といったものだな。 |
川島 | 本当にそうです。特に最近は、離れた弓の握り皮がひとこぶしもふたこぶしも弓手より落下している方が、かなり多くなっていますね。 |
木下 | それも最高段位の見本の方でさえ、弓が落ちている。 |
川島 | よーく見ると離れの瞬間パッパッと無意識に弓を握りかえています。 |
木下 | まさしく<手の内>見えたりだな。 |
川島 | 弓は母指で挟まないで受ける、決して握り込まないという基本さえ知らない人が増えてきたのですね。 |
木下 | だから、手の内に大きなタコを作って手術してみたり、肘が痛くなって弓が引けなくなる。 |
川島 | 弓が引けなくなるものだから、どうしても立ったりすわったりする方に価値観を見出すこととなり、体配名人が出てくるわけですね。 |
木下 | 他人様に強要しているうちはいいのだが、そうこうしているうちに自分自身が年をとってしまい、体配さえも出来なくなる。 |
川島 | 弓は引けないわ、体配は出来ないわ、理論もないわ、ではね・・・。 |
木下 | まさしくこれが大衆弓道の<不昧因果(ふまいいんが)>なのだ。 |
川島 | 自分の手の内は、そんなに簡単にヒトサマに見られては困りますものね。 |
木下 | 普段の生活でも同じですよ。握り込んでしまうからいけない。 |
川島 | 結局は握り込むことが、すべての原因の根本なのですね。 |
木下 | <軽い離れ>は、いつまでたっても出来ないということだ。 |
川島 | 普段の生活においても、握り込んでしまわないことが大切なのですね。 |
木下 | それでは<軽い離れ>とはいかなるものかであるが・・・ |
木下 | 離れは<軽く>なくてはいけない。<軽く>なければ離れとはいいがたい。 |
川島 | <離れもどき>ならまだしも、ほとんどの者が<引きちぎり>や<離した>のレベルですものね。 |
木下 | 真っ直ぐに押して引いて、真っ直ぐに弦を押し出しさえすれば、自ずと<軽く>離れてしまうものだ。 |
川島 | 指先で弦を握り込んで手首で<招き手>をやっていては、まともな<離れ>にはなりませんね。 |
木下 | 手首で弦を引いていては、いつまで経っても<離した>となるのだよ。 |
川島 | やはり骨法(こっぽう)ですね。 |
木下 | 肘で弦を捻りながら取り掛け、前胸部を拡げ、背部肩甲骨どうしを合わせていくような骨合筋道(ほねあわせすじみち)の稽古が必要だ。 |
川島 | つまりは何年何十年稽古しようと<離れ>には程遠く、決して<軽い>レベルには到達しえないということですね。 |
木下 | タチの悪いことに、この<軽い>を『弱い離れは冴えが無い。』などとまことしやかに解説する素人指導者が増殖してしまった。 |
川島 | 大離れが正しく、中離れ、小離れは亜流であるという先生方は、ひとつの離れしかできないのでしょうか。 |
木下 | 本来は、それぞれの離れに各々の使い分けがある。 |
川島 | 稽古の上では初心者の大離れから始まり、中離れから小離れへと到達する過程が自然なのですね。 |
木下 | すなわち、いつまで経ってもドカンと大きく離すことばかりしていては、技の上達もなければ、ましてや精神の上達もありえないのだ。 |
川島 | そのうちにマメやタコが手の内に出来て弓が握れなくなるし、肘が痛くなったり五十肩のように肩も上がらなくなってしまいますものね。 |
木下 | 雨露利(うろり)・村雨(むらさめ)・朝嵐(あさあらし)などといった最高の離れを体得するには、それなりの道理がいる。 |
川島 | 指先の使い方から始まり、弓の受け方、弦の掛け方等々すべて一からボタンをきっちりと掛けなければならないということですね。 |
木下 | 的のどこかに<当たって>しまうレベルと、的の中心に<中(あた)る>レベルとでは、当然のことながら入口が違うのだということを認識されたい。 |
川島 | <中る>ためには<軽い離れ>が必要なのですね。 |
木下 | 戦後の日本が失ったものは、<武>という言葉に集約される。 |
川島 | 文字通り<武>とは<戈(武器)を止める>という意味ですね。 |
木下 | <武>というものは、保持しているからといって戦う必要はないものだ。 |
川島 | つまり<戦いを止める力をもつもの>ということですね。 |
木下 | 例えば、江戸時代の長期間の平和は、まさに武器を用いることなく文字通り戈が止まって平和であったのだ。 |
川島 | <武>とはすぐさま生死を左右させるものであるが故に、そこには倫理や規範、規律などといったものが自ずから存在していたのですね。 |
木下 | 外国では、日本人の無宗教はけしからんとよくいわれるが、それに代わるものとして日本人には<武>の心があったのである。 |
川島 | 何気ない日常においても、常に<死>というものを覚悟していたサムライであったればこそ、というものですね。 |
木下 | <武>の精神とは、単なる犬死にではなく、いかなるときも命がけで自分の義務を果たそうとすることである。 |
川島 | 正々堂々のうちにあらゆる手段を用いて生き延びんがために我命をかけることが、<武>の心ですね。 |
木下 | だからかつては日本のサムライといえば、世界中の誰もが畏敬の念を抱いていた。 |
川島 | そしてまたサムライだといわれんがために、我々日本人たるものとして<凛>としていた。 |
木下 | 現在では残念なことに日本人の<武>の心、伝統がまさに消滅しようとしている。 |
川島 | たかだか一尺二寸の的に的中させることが弓道だとおっしゃる指導者さえもすでに死に絶えようとしている現在、我国固有の<武>の心は一体どうなるのでしょうか・・・ |
木下 | 温故知新だよ。我が流派には五百有余年の歴史があるものな。 |
川島 | よく
<射品> とか <射格> がある・ないといいますが、どこを観ておられますか。 |
木下 | 先ずは手の内であるが、
<握らず> にいかに <受け> ているかだ。そして次に <軽き離れ>
を良しとする。 |
川島 | <手の内>
見えたりとよくいいますが、まったくその人の心の動きや性格まで伝わってきますね。 |
木下 | いくらど真ん中に二本皆中したところで、サルが壺の中のアメ玉をつかんで離さないような
<手の内> では話にならないね。 |
川島 | そうですね。なんでもかんでもつかんで離すものか、といったような手の内を見るとき、その人の性格や育ちまでも観てしまったような気がします。 |
木下 | 指先は決して握り込まずに、軽く締めることだ。 |
川島 | 卵を包みこむように、唐傘をさすようにですね。棒でも刀でもゴルフクラブでさえも、すべて同じですものね。 |
木下 | では、離れにおいてはどのように観ておられるのでしょうか。 |
川島 | 初心の荒い離れのままでいくら高段位にのぼりつめたところで、どこかに無理や未熟が残ってしまうものだ。決して金的には皆中できまい。 |
木下 | <ハナス>
と <ハナレル> の違いをほとんどの人がわかっていませんね。 |
川島 | 弦を握りこんで長時間呼吸を繰り返し、放さないのがすばらしいという指導者が出現してしまった。 |
木下 | いつまでたっても、<ハナス>
では大衆弓道のレベルを越えられないですね。 |
川島 | 軽いハナレにシャープさが加わればよい。 |
木下 | 前面だけつくろったところで、後面もつくりあげなければ決してシャープな軽いハナレは出ませんね。 |
川島 |
人を観るときは、前よりも後ろから観る方がよい。前はつくろえるが、後ろはごまかせない。
|
木下 |
だから後姿ののっぺりとただ引いているような淋しい姿は、何よりもよくないのですね。
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川島 |
肩甲骨がガシッと合わさっていて立派に見えてこそ本物である。こうなっておれば、人物もできているというものだ。
|
木下 |
アゴがしまり、胆(ハラ)がしまっていなければならない。
|
川島 |
徳や力などというものは、先ず面(カオ)に現れるが、それが後姿にあふれ、後光がさしてこそ本物なのである。
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木下 |
古諺にある <面(カオ)に見(アラワ)れ、背に溢(アフ)る> に至ってやっと弓が身についたというのでしょうね。
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川島 |
近頃は、射礼後いかにもえらそうに帰ってきた先生の後姿の衣紋が、アサッテの方向に向いているのをよく見かけることがあるな・・・
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