川島 | 弓道修得の心構えとは? |
木下 | いかに上手に的中させてみたところで技と心が併合しなければ真の弓道とはいえない。例えば、数ヶ月を経た初心の者と、二〜三年を経た中習のものとの<行射>を見比べたとき、どういう由か初心の者の方に<好感>を持ってしまうことがあるだろう。 |
川島 | 確かにそうですね。的中も出て、そのつど喜びや憂いが生じてきた連中の行射の方が美しく思えるはずですが、同じ立ちの練習では、初心の者の方が光って見えてしまうことがあります。 |
木下 | また、こんなことはなかろうか。的中はしなかったが、自身もなんとなく「ハッ」としたような、気持ちがよかった行射と、的中はしたものの、どういう由か無視されてしまうような場合があるだろう。 |
川島 | そうですね、いつの間にか的中のみに心が先走り、当てることのみに熱中したがために、我流に走り、結果としてストレスだけがたまり、中途半端になってしまっている時期がありますね。 |
木下 | そんな時は、いくら皆中してみたところで、本人自身も満足もいかないし、ましてや周囲の評判も、口先ではほめてはくれるものの、後の茶の席では、話題にもならぬ事がある。弓だけとは限らず、すべての動作の終極には、「美」というものが存在しよう。芸術論・哲学論などは、後々のことですが、先達の教えを充分反復されたい。 |
川島 | つまりは、射法八節とか五味七道に極みありということですね。生死をかけたところより生じた五味七道という究極の方程式を解析せざるして、<平常心>や<無念無想>などという境地にはほど遠いということですか。 |
木下 | 具体的方法として敢えていうなれば、平常心・無念無想の境地になりたければ、先ず射術を完全に身につけ、完全に身体に覚えさせてしまう心掛けが大切である。つねにその<心掛け>が必要であるということだ。 |
川島 | なるほど、先ほどの初心者と中習者の例えがわかってまいりました。<心掛け>が常に必要な初心者の方が回り道をしている中習者より、近道にいるということですね。 |
木下 | 禅問答的やりとりはまた別の機会におくとして、当流では、<無念無想>では矢は当たらないと解している。 |
川島 | 弓道の上達のために<技>を学ぶのですが、その学び方について御教授ください。 |
木下 | 武技として考えた場合、初心の当初から『最高の形』を習得してゆかない限り上達はしないということだ。 |
川島 | 大抵の人たちは試行錯誤しながらやさしいものから順に上達してゆくものが正当であると思い込んでいるのですが、よくよく考えてみればどうもこれは思い違いのようですね。 |
木下 | 毎日の練習を重ねて、ある時『これだ!』と思い、ハッとしたとしよう。しかしね、ふっとまわりを見渡せばすでにもう日は暮れかかっているのです。 |
川島 | つまり、<技>を学ぶとは、普通の人間的な動かし方を超えた動かし方を覚えなければならないということですね。 |
木下 | 例えば、箸の持ち方を考えてみれば良い。見よう見まねの幼児は三本指で握ってしまう。これが自然な人間的な技ということです。 |
川島 | なるほど、<箸の持ち方>の例はわかりやすいですね。 |
木下 | <最高の形>を体得した私たちは、真っ暗闇でもちゃんと箸と茶碗で御飯を食べることができる。 |