「思無邪」思考

 いつも京大弓道場に入ると、上座の長押に掲げてある「思無邪」の額が目に飛び込んでくるのである。そして、そのたびに若輩当時の私の、「今後の為の参考にしなさい」という師範からのメッセージを思いかえすのです。

 それは「正射必中たらんは、修業(つみかさね)の二途が必要である。」というものでした。その二途とは、
 第一に、手段の研究・技術面での鍛錬
 第二に、精神面での修養、すなわち心を磨くことである。

 つまり射技、射術の上達と、心の錬磨の相互の関係から正射必中に近づいてゆくというものです。そして、あくまでも相互のからみ合いをもってしか上達はあり得ないということです。

 では「思無邪」とは如何なるものかという問題をこの「二途」で考えてみれば、先ず、射術的「思無邪」とは、私が普段申し上げているところの「一分三界的介」(いちぶさんがいまとだすき)の「的介」、つまり胴造りの事です。胴の中筋を真直にして、胴の真脇の中筋が的と十文字に当たる様にすること、すなわち、的を腰に引き受ける様にする胴造りは、的に精神を奪われることなく、必ず「あたる」という自信が発生し不安定な心になりがたい状態になる。そのような胴造りのことをいうのです。

  次に、精神的な「思無邪」とは、多くの実績、経験により、精神の上達段階の過程中に、より人間たり得るようになること、より人間として完成することといったような表現になるのでしょうが、当然、この精神面にこそ重きを置いているのです。人間としてしっかりすることこそが、勝負時の強さの根源をなすと考えます。

 精神面の理想の単語として、「空」「真空」「無」「中」の境地を求める、この「中」さえ把握できたら、いっさいとの調和、統一ができるというのでしょう。精神的なことを解説しようとすると、どうしても禅問答的迷答になってしまいますので、私のよく云うところの「無為」という言葉をもって、このことを少しでも理解していただきたいと思います。

  以下、参考までに、日置流の教書、及び、竹林派の教書の中の「思無邪」を付記しますので、各人よく理解され弓道に精進されることを望みます。

 日置流教書には、
 「思無邪、思ひなければ邪(よこしま)なしと云う事也。射形にして直とゆがみとの事也。惣(そうじて)十文字の位に具(つぶさ)に顕(あらは)すと云へども茲(ここ)にも記す的にたすきにかくると云ふ事肝要也。的たすきと云ふ事は、其目当物を我身四寸の真中にして的の中へはまる心也」

 とあり、又、竹林派教書には、
 「思無邪、是れは胴の真脇の中筋を的介に十文字に当る也。如斯造りたる胴は目中物を真脇に当る口伝能々心得可也」
 とある。

 又、文中に「一分三界」とあるのは、的のねらいの教えであって、一分は的の中心、三界とは的全体をいいます。すなわち、的全体に気をとらわれずに的の中心のみを狙えと云う事です。「雪の目付」という言葉も同じ意味です。

 反求 第33号(昭和62年3月発行)より

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